「ああ、自己紹介が遅れましたね。僕の名前はイレス=ロゼグ。当て所
仰々しい辞儀の一つを取っても大道芸人の興行を思わせる。
イレスと名乗る黄瞳の魔人が再び顔を上げると、不気味な愛想笑いの仮面に戻っていた。
「さて、花嫁殿。貴女のお名前をお聞かせ願えますか?」
見えない瞳から絡み付く、ネバ付くような視線を受けて、リルはギュッと俺に抱き付いた。小さく震えて「怖い」と呟いたのを、俺は聞き逃さない。
そんなリルに、イレスは大仰に肩を竦
「些
サディスティックな薄ら笑みに反吐が出そうだ。
イレスは俺の心中など窺い知らないであろう。左方に浮かぶ『義父』の頭へ会話の矛先を持っていく。
「義父殿。貴男の娘御殿のお名前を、僕に教えてもらえますか?」
問われて、『義父』の口が上下に動く。ぎこちなく、緩慢に。
洩れる声は「え゛う゛……」「あばぉ……」とか、文章どころか単語としてさえ捉える事が出来ない喘ぎ声。
イレスはそれを頷きながら聞いていた。理解できているのかどうか甚だに怪しかったが。
「フフフ……」
イレスは笑った。小さく、漏らすように。
「アハハハハハ」
そして大きく、豪快に。
笑いながら『義父』の前頭部に掌を当てると、そのまま拳を作った。
冷たい夜闇に、人の肉と骨が潰れる音が響き渡った。
「!!!」
リルの悲鳴は声に成らなかった。耳鼻咽喉から腐れた血液を流し、眼窩を砕かれ眼球が飛び、入れ物を失った脳漿が撒き散らされる。その様は凡
リルは月と炎の光の中で、目に見えて顔色を失った。
「いやはや全く。貴女方親子は、本当に僕の心を満足させてくれる」
指に付いた血と脳漿と、肉の切れ端と骨の粉を舐める。それは、子供が指に付いたクッキーの食べ滓を舐める行為と大差無いのだろう。
「本来、"死人還り
言いながらも笑い収まらず、要所要所でクスクスと含み笑いを零していた。
「ですけど……。義父殿は何と言ったか解かりましたか?」
その『義父』殿は、地へと朽ち墜ち、闇色の炎に焼かれるようにその姿を崩し、消え逝く最中だった。
「『リルを見逃してくれ』と。そう言っていました」
「……パパ……」
「フフフ。大したもんですよ。死して尚娘を慮るその意志力。笑いましたよ。驚愕のあまりね。で、す、が。主人の意向に沿わない物言いは減点対象だったので、もう一度死んでもらいました」
奥歯の底から、洩れる物があった。
怒りと、強烈な嫌悪に塗れる唾棄の言葉。
「テメ……ェ」
哀しみと恐怖に硬くなるリルが枷
射殺さんばかりの眼圧に、しかしイレスは全く動じる事は無かった。それどころか、寧ろ愉快そうに俺に指を付き付ける。
「おっと、その目。思い出しますよ。リンカ殿と同じ目です」
姉の名に、リルはピクリと体を震わせて反応を示す。
「思い出しますね、彼女と過ごした初夜を。交
喘ぐような恍惚の表情で、自分の体をきつく抱き締めていた。記憶に残る快感が、体の芯から疼きの産声
夜風のせいで火照
「フフフ、決めました。喜んで下さい、簒奪者殿」
「どうせ碌
チッと舌打ちを鳴らして、今の自分の気持ちを露わにする。
「まァそう言わないで下さい。本当は人間の男になんて興味は無いんですよ。その場で殺してやるのが常なのですから。つまり、貴男は選ばれたのです。貴族であるこの僕に」
「嬉しくも何とも無いね」
「そうですか?折角僕達"魔人
イレスのふざけた提案に、臓
そして、フィードバックする記憶の波。
八年も昔の、幼き日の悪夢の再現。
眩暈
この道化は、"聖別"を口にした。許せるわけが無い、この俺に思い出させたのだから。その罪は償われなければならない。――いや、この俺が、強制的に償わせてやる。
「フフフ。その目の灯火、果たしていつまで輝くのでしょうね?」
最早、俺はイレスの口上になど耳を傾けてはいなかった。
布に隠された左掌を握り、開き、また握る。疼きは無い。この程度の殺意を抱いた所で、もはや反応は示さないつもりか?贅沢なヤツだぜ。溜め置きもリンカの時に使い果たしたし、もう左腕は使えないようだな。俺は早々に諦めを付けた。
「リンカ殿は、"聖別"の儀が終わるまででした。あとは三日の間、恐怖に震え続けていましたね。肉に飢え血に渇き、生に毒付き死を欲する本能の囁きに、自分が自分で無くなる瞬間の到来を知ってしまったんでしょうね。体を丸めて、野鼠のように怯え続けていました」
胸ポケットに納められる数個の重みを確かめる。そうそうに補充が利くような代物じゃ無いし、何より高価な稀少鉱物だ。出来るならば軽くなるような事は無いで欲しい。
「しかし通例、10も数え上げぬ時の間に"化生
続いて、腰回りのダガー。触り慣れた柄の感触は、平和にあって心乱す物があり、戦いにあって心落ち付かす不思議な力を持つ。
「僕が調達した『食事』も碌に喉を通らない御様子でしたから、つい情け心を出して母君殿の下へ返してあげたのですが、これが裏目に出ました。『母親の手料理』を食して頂いければ理性を保てると思ったのですが、まさか『母親料理』を食してしまうとは……おかげで結局スリジ止まり。いやはや、やはりあれが人間と言う種の限界だったのですね」
どうやら、嘆きの言葉だったようだ。当然、聞き流したが。
「ガキんちょ」
俺の声に、リルが顔を上げた。血の気の失せた唇が、カタカタと壊れた陶器人形のように震えていた。
「今から始まる演目は成人指定だ。目を瞑
キョトンとしたようだったが、それ以上に何も聞かなかった。力一杯に目蓋を下ろした。両掌を使ってギュッと耳を塞いだ。体を丸めて、出来る限りの外界情報をシャットダウンした。
聞き分けの良いリルの頭を軽くポンポンと叩くと、俺は立ち上がった。
さァ、演目披露の時間だ。演目名は、そうだな……『私刑執行』ってところか。これは、私怨を思い出させた馬鹿者への、単なる八つ当たりを含めた復讐劇だから。
「どういたしました、簒奪者殿?僕の講演はこれからが佳境なんです。聴講者は黙って座っているのが礼儀でしょう?」
知らねェ。
胸ポケットの中に手を滑らせて、人差し指と中指で中身を二つ摘み取る。硬く、生暖かい感触は、親指の爪大の石礫
俺はそれをイレスへ目掛けて投げ付けた。
微熱を持った礫は、直線に沿ってイレスへ向かう。狙いは違わずあのイケ好かない黄色い瞳。
「小賢しいですね」
言うが早いか、イレスの右腕が霞むような速さで礫を掌中に囚える。が、
甘い。ビシ!!と乾いた音が鳴り、イレスが顔を反らした。残念ながら視界から隠れてしまって見て取れないが、恐らくは豆鉄砲を食らった鳩のようなツラァしていたに違いない。
やった事を言うのは簡単だ。一度の射撃動作で二つの礫を同時に投げ打ち、一撃目の軌道を追うように二撃目を放つ。一撃目の礫を余裕綽々
イレスが怯むその隙に、俺は地面を蹴った。
踏み出す左足が火群
その火熱を無視して更に二歩、三歩。その時点で、既にトップスピードに乗る。
イレスが俺の走音に気付き、視線を向けた。しかし遅い。既に間合いは近接距離にまで迫っている。
巻き込むような右のショートフックがイレスの左頬を捉え打つ。
――浅い――
思ったより軽い衝撃でそれを知る。自ら独楽
身を捻る勢いをそのまま使ったイレスの左手刀が俺の首を狙う。
殺気だけで感取り、俺は右足を前方へスライドさせる事で身を沈め、同時にイレスの軸足を払った。
不安定に繰り出した足払いではイレスの足元を掬うには到らなかったが、それでも体勢を崩すだけの功は奏した。少し離れた背後で鳴る土を抉る音は、手刀から伸びた爪が大地を打った音だろう。
蹴り足を素早く手前に引き戻し、大地に確
ガッ!!これはイレスの顎を蹴り上げた音ではない。蹴り足である左足を掌握された音だ。
俺の足首を掴むイレスの華奢な掌。しかし、生まれる握力は万力も斯くやと言う強力
「未来の主人に対する牙剥きは、感心しませんね」
言ったイレスの両瞳が見開かれる。その黄瞳の上に、凶々しい赤光
ヤベェ!!思うより先に体の方が動くのは、長年戦いの中に身を置いて来た事が可能にした脊髄反射。
掴み捩
俺にとって予定外の、イレスにとって予想外の反撃は、奴の顎をカチ上げて星の輝く夜空を無理矢理振り仰がせた。
ヒシュ!!
聞きなれない音が夜寂を乱し、見なれない閃光が夜闇を裂いた。両瞳に集束した赤光が弾丸と化して撃ち出されると言う、現実離れした現象が引き起こした結果だ。
顎を打った一撃に怯
イレスは顎下を軽く撫で摩
「ったく。目から怪光線たァ、人間離れした芸当見せてくれるじゃねェか」
「人間じゃありませんからねェ」
事も無げに切り返された。その通りだ。
「それに、今のはれっきとした魔術の一種ですよ?僕にとっては手足を動かすのと殆ど同義なのでそう呼ぶのは些
「知った事かよ!!」
吐き捨て、再び大地を蹴る。
抜き様のダガーの一閃が、イレスの高硬度の爪に軽く往なされ、俺はイレスの横を通り抜けるだけに終わる。
振り向けば、開眼のイレス。赤い光弾
ボッ!!と、マントを貫き破る音に数瞬の間も置く事無く、遥か後方で地を地面を抉る爽快な音が響く。
ゾッとしないスピードと威力を孕んでいる。一般に威力が弱いと言われる簡易魔術でコレか?ふざけやがって。
だからと言って逃げ腰決めて、背中からズドンは御免被りたい。何より、八魔王の子族を見逃すのは、俺の人生において認められない。八年前のあの日、そう決めたハズだろう?
言い聞かせると、続く爪の斬撃を掻い潜り更に踏み込む。
死角からの斬り上げの一撃も、寸での所で躱
「《大地の牙 遥かなる高みにその身を剥け 日と雲と月と星を食らう為」
素早い印組みに左腕が敏
呪文詠唱
「無限なるマナよ 吹き上げよ 三叉の土塊
キャストの終了の一瞬、足元に違和感が生じる。本能が鳴らす警鐘が、またしても体を勝手に突き動かし、理性はそれに逆らおうとはしない。
ヒュッと風を切り、涼やかでいて冷ややかな風が頬を凪いだ。
見れば、飛び退
俺の身長よりも頭三つ四つ高い所まで伸び切った所で、土銛は前触れも無く消滅した。後には、それまでの現象が嘘であったかのように、固い地面だけが残っている。
背筋に冷たい何かを感じながら、一先ず体勢を立て直す。距離は離れたが、一気呵成の踏み込みさえあれば、一秒にも満たない時間でその距離をゼロにする自信はある。
「ネクロマンシー、禁忌の邪法
「おやおや、簒奪者殿。貴男も似たような者でしょう?卓越した体術、意表を突く飛礫術、正確無比な短剣術。あと、リンカ殿を焼き払った奥の手まで用意しているのでしょう?魔術……ですか?ですが、貴男の瞳は青い。と言う事は、マジックアイテムの類ですかね?いけませんよ、出し惜しみは」
口を開けば一々喧しい。言うだけ詮無き事はグッと堪えて、俺は左腕をチラリと見遣る。
「貴様如きに、使うまでも無ェってよ」
「ハッハッハ。舐められたものですね」
別に、舐めてるわけじゃ無ェが……。この際どちらも同じか。
「《水を食
目の前でキャストを許す程鈍間
蹴り足を残すように体を捻ると、必然的に右半身が前に出る。その僅か四半回転の勢いさえ余さず乗せて、腕と、その先にあるダガーのポイントを突き出す。
眉間を狙った一撃だったが、イレスの反応は速かった。キャストを中断し、ポイントの軌道から頭蓋をずらす。ダガーは、金銀の毛髪を数条、撒き散らしただけだった。
「危ないですね」
語頭が一瞬裏返ったのは、掠めた死期に恐怖してか?それよりも今重要となっているのは、俺にも死危が近付いていた事だ。
イレスの黄瞳が緋色に染まる。ジリオンと銘打った怪光線だ。
慌てふためき身を低く沈ませる。が、"射殺さんばかりの"視線が俺から外れる事は無い。頭上に、嘲りを含んだ笑みを浮かべたイレスの顔があった。
ジリオンが撃ち出された一瞬未満の時間を経て、音が響いた。
ギィン!!
金属が揺れる盛大な音は、夜の静寂
ジリオンの弾道を妨げるダガーから伝わる衝撃にさえ、右手が千切れそうな程に痺れ上がる。魔力を祓う力を持つ銀で出来ていなければ、刀身ごと頭蓋を貫かれていただろうと言う予想は、かなりゾッとしない確信を持って言い切れる。
今は戦いの最中。いつまでも悪寒に捕われている暇は無い。
真上から叩き付けられた巫山戯
バギ!!顎骨を砕く音が耳の裏にこびり付く。砕く感触が足裏に伝わり来る。
勝機……!!
顎を打ち抜いた左足の踵をイレスの右肩に添えて踏み台にすると、右足のバネを全開にして撥ね上がる。
「哈
気合一閃、右の爪先を振り抜いた。顎の下、骨の鎧を持たない底部を蹴破り、引っ掛かった下顎骨を空高く蹴り上げる。肉の断列する音は、気合いの咆哮に掻き消される。
大きく空を舞った俺の眼下に、上顎を覗かせる
俺は思い切り身を捻ると体を180°回し、落下に合わせて
「逝
膝!綺麗な着地など考えず、重力が望むままにイレスの上顎へ向かい、膝から全体重を乗せて飛び降りた。
ゴジャ!!と。それが土を割った音なのか、頭蓋を砕く音なのか。両手を鳴らしてどちらが鳴ったのかを問うくらい難儀な質問だ。
頭半分を土に埋め、大の字に転がるイレスの喉に、俺は更にダガーを突き立てる。
鮮血が飛沫
左腕の布で血を拭うと、遅れてイレスの下顎が主人の胸元に落ちた。ドンと言う鈍い音を一度だけ立てて。
フゥ……終わった……。たった数分の戦闘だったが、張り詰めた緊張感が、その何倍もの体力を奪っていた。気付くのは、いつも一段落着いてからだ。
もう一度、今度は丁寧に返り血を拭ってから、イレスを背に、リルへと振り返る。
リルは、言われた通りに目を閉じ、耳を塞ぎ、揺らぎ火の前で体を丸めていた。
俺はゆっくりとリルに近付き、その肩を叩く。
「もう、良いぞ」
声にか、肩に触れた手にか。兎に角どちらかに釣られ、リルは恐る恐ると言った体
やれやれ……見えない場所で繰り広げられる死闘は恐ろしかろうに。そのくせ涙の一つも見せないとは、全く持って可愛げのない。
「終わったよ。姉貴を助けられなかった代わりってワケじゃねェけど……仇はとってやった」
俺の言葉に、リルの表情が一変する。
リルは言う。「仇を取ってくれた有り難う」ってな台詞じゃない。もっと予想だにしない、たった一言。
「後ろ!!」
一瞬、遅かった。それよりも早く激痛が走った。