龍の樹 2
黄色い瞳の魔性物デモン・ブラッド

 悲鳴が疫病のように、だがそれよりも明らかに素早く伝播でんぱし、一つの怒号となる。二十数人から成る野次馬達は背を向けると、蜘蛛の子を散らすようにして一斉に逃げ出した。
 男の首をボトと地面に落とすと、リンカは両腕をこちらに翳した。
 次の瞬間、驚異的な速度で爪が伸び上がり、リルを抱く俺と、背を見せる同郷の群れを襲った。
 リルを抱えたまま、俺は精一杯に跳躍した。
 爪の一本が、一秒前まで俺が居た空間を貫いた。その後に続くように、背中から幾つかの悲鳴が重なって聞こえる。空気の漏れるような悲鳴は、恐らく絶命したのだろう――三つだろうか?――。あとの六つだか七つだかの壮絶な悲鳴は、皮肉な事だが脚なり腕なりを貫かれて負傷した程度だと思われる。確認する暇さえなかったが。
 俺が手際良く攻撃を避けたのを知ると、リンカは伸びたままの十本の爪で今度は俺を斬りに掛かる。左右と上からの攻撃を避けれなければ、問答無用の心太ところてんの出来上がりだ。正直言って御免したいね、俺は。
 地面を蹴ると、左へとダッシュした。
 左手でリルを抱いたまま、俺は余った右手でダガーを抜いた。ダガーは腰周りに背負うようにして携えられており、柄頭ポルメが下に、ポイントが上に来るようにしてケースに納まっている。結果として、俺はダガーを逆手で持つ事になる。
 ダガーを抜き放つ。迫り来る爪へ向かって、下から斜め上方へ向かって斬り上げる。
 一瞬の銀光の閃きと、ギィン!!と言う、蛋白質たんぱくしつの爪には似つかわしくないきしりの音が響くのは全くの同時。俺のダガーは爪を断ち切った。
 空宙に投げ出されるだけになった爪に脅威は無い。体当たりで爪をどかすと、リルの視界に死体が入らぬよう、且つ俺を狙う爪の巻き添えにならぬよう回避経路を瞬間ごとに動的に選択しつつ、一本の大樹の後ろに身を隠した。
「ガキんちょ。お前はここから動くんじゃねェぞ。動いて標的まとにされても、俺ァ助けねェからな!」
 恐怖で強張こわばるリルの視線を無理矢理俺の視線と合わせると、必要以上に強い声でそう言い聞かせた。
「でも、お姉ちゃんが……」
「アレは……お前の姉貴じゃねェ……」
 大樹の裏に何かが突き刺さる音が鳴る。土砂降りの雨が雨樋あまどいを叩くように、飽きる事無く何度も何度も。
「アレは、禁忌の邪法によって魔物化した"化生けしょう"だ。俺はアレを滅ぼす」
「そんな……」
「そんなもへったくれもねェ。お前の姉貴を助けるとか大口叩いちまったのにこんな結果になって悪いとァ思うが……それとこれとは別だ」
 断言する俺に、リルは首を左右に振った。それは明らかな拒絶の意志を表現する。俺の行動への拒絶だけではない。信じたく無い現実に対する拒絶も、多分に含まれる。
 俺は、敢えてそれを無視すると、
「俺の邪魔をすれば、容赦なく叩っ斬る」
 言い残して、大樹から慎重に――且つ大胆に――身を踊り立たせた。
 魔物――正確には化生――が、しぶとい獲物を見付けて笑った。
 三日月のように醜く歪んだ大口は、自らの知能が本能に喰い尽くされている事を示唆させる。それは、獣のように獰猛で、人間のように野卑た、最悪の笑みだった。
 左五本の爪が空裂きの音を響かせて迫るが、右へ軽くステップを刻むと、苦も無くかわす。
 そのまま一気呵成いっきかせいに間合いを狭めようとする俺に、その五本が横へスライドして斬撃へと移行した。俺は慌てて地面へ這いつくばり難を避けたが、追い討つ右の五爪が叩き落され、無様に地面を転がった。
 身を立て直す俺に、容赦無く降り注ぐ斬撃と刺突の嵐。時に身をひねり、時に大地を蹴り、時に空に身を躍らせ、時にダガーでさばき。そんな中にあって確実に間合いだけは詰めて行く。
 間合いを狭める程にリンカは爪を短くして対応し、それだけ爪撃のローテーションは短くなる。しかし正直、苦も難も無い。耳元で唸りを上げる爪撃は、夏場の羽虫のようにただ"鬱陶しい"程度の存在でしかない。伊達だてや酔狂で体術に磨きを掛けてきたと思ったら大間違いだ。
 左の斬り上げを軽快な上体の振りウィービングなすと、更に一歩の間合いを踏み込み――そこは既に俺の間合いだった。
 人間並みの知能を失って尚、人間並みの感情を持っているのであろう。その濁ったような瞳に宿るのは、驚愕と恐怖。
 リンカの狂的な唸り声。振るわれる十本の兇爪は、左が振り降ろし、右が胴薙ぎの斬撃。
 ギギギギギギギギギギン!!
 金属を断つようなかん高い音が、連続して響いた。俺のダガーが上弦に軌跡を残し、リンカの持つ十本の爪の全てを叩き斬ったのだ。
 叩き斬った十本の爪がてんでバラバラに宙を舞う。
 死からの接近アプローチを、本能が嗅ぎ取ったのだろう。リンカは戦慄に目を見開いた。
 俺はその零れ落ちそうな眼球を見据えたまま、大地を踏み締める両足に力を解放する。
 限界まで引き絞った筋肉が一瞬の時の間にバネへと昇華されるのを、長年の経験で知る。
 両腕を添えたダガーは完璧に固定されたまま――撥ね上がる。全体重を余さず乗せた斬り上げの一閃。化生と成り果てその身が強固に成ろうとも構いはしない。俺がそれ以上の力で斬って捨てればそれで一撃必殺!!
 勝った。それは当たり前の事であり、酔いれる快哉かいさいを上げて自分を見失う程の事ではない。だから、「それ」は油断などでは断じて無かった。
 リンカの動きは一瞬さえも見逃さず――それがまさかアダとなるとは、思いもしなかった。
 斬撃の軌道上、ほとん密着距離ゼロ・レンジにあった俺とリンカの間合いに割って入り込んだ人影。卓越した動体視力は、果たして幸か不幸か、人影の正体を瞬間で判断した。
 リルだ。
 いつの間に?!恐らくは、俺がリンカに、リンカが俺に注意を払い続ける隙を縫っての接近だったのだろう。
 しかし、今はその原因を追求する事に意味は無かった。「このままではリルごとリンカを斬り捨てかねない」と言う事実が目の前に転がっている事だけが重要なのだ。
 舌打ちなんざしている暇も無い。下半身の発射台の引鉄ひきがねは既に引かれており、それを止めるすべを持ちはしない。ならば、上半身から肩、肘、手首、指関節に到るまでのあらゆる筋肉繊維と関節に、自分でも呆れるくらい迅速に指令を送り酷使する以外に手段は無い。
 ダガーをベクトルに逆らう形で放り投げる。たったそれだけの事に全身が金切りの悲鳴を上げるとは思わなかった。
 苦痛で俺の顔を醜く歪ませる程の代償を払った価値があったのは勿怪もっけの幸い。ダガーはリルのブロンドを数本舞わせるだけで、彼女の頭上で弧を描きながら飛んで行った。
 しかし、俺にとってそれは致命的。体は身動きままならぬ空宙に放り出され、しかもダガーさえも手には無い。恰好の標的だ。
 厭味イヤミったらしい醜悪な笑みがカンさわったが、俺に出来る事は何も無かった。
 瞬時に生え揃う右の五爪が、横殴りに襲い掛かった。
「クッ!!」
 慌てふためき、それでも辛うじて「左腕」を下げて斬撃を受けた。どうやら、上下の半身が離れ離れになる最悪の結果だけはまぬがれたようだ。
 とは言え免れたのは「最悪」だけ。左腕のアーム・ブロックの上から響く重たい衝撃が脇腹を打ち、5m近い距離を叩き飛ばされた。しかも衝撃に頭が眩み、受身も取れずに背中から叩き落とされた。
「お姉ちゃん」
 激痛で目の前に星が幾つも飛ぶ心地の中で、リルの声が聞こえた。姉の安否を気遣った、想い入った声だった。
「逃げろ……」
 俺の声は、そのリルに向かっての言葉だったが、彼女のそれとは違って明らかに弱々しかった。心配機能を一時的にイカれさせているから、もしかしたら言葉にさえなっていなかったかもしれない。
 苦痛を意志で抑えながら、俺は必死でリルの姿を確認した。
 リンカに抱き付いたリルは、姉の無事を嬉しそうに見上げていた。
 リンカも、笑った。微笑などではない。例の、冷徹にして醜悪な、悪魔の笑み。
 爪の生え揃った右腕を上げた。手刀を形造り、その先端で狙いを付ける。狙うは、リルの眉間。
 驚愕に彩られるリルに向かって、リンカは尚も笑っていた。「どうして?」と呟く妹の疑問には、答える意志も理性も無いらしい。
 リンカがリルの眉間を貫くよりも早く、俺は叫んでいた。左腕を突き出して、蓄えられていた力を解放する為に。
 叫び声は、たったの一言だった。
焼き尽くす者アルスヴィズ!!」

 俺の視界を支配したのは、ただ破壊を好むだけの赤だった。

 その赤は、炎。ぜて獲物を食らう、炎。
 炎にあぶられて枯れ枝達が、パチパチと単調な唱和をかなで続ける。
 昼が太陽と雲の楽園なら、差し詰め夜は月と星の安息地。お伽噺とぎばなしに出てくる単眼の魔物のように見下ろす月を見上げて、俺はそんな他愛も無い事を考えた。
 火の勢いが弱くなったようだ。俺はまた火に餌を与えると、その勢いを取り戻させる。小さな体を毛布で包む少女を、夜の冷気に喰わせない為。そして、野犬などの獣達とのトラブルを避ける為。
 流石に街道のど真ん中でだんを取るわけにもいかないので、街道から五分ほど離れた森の入口近くで火を起こした。
 リルは、俺のすぐ隣で規則正しい寝息を立てている。
 俺は今、「傭兵国家」の二つ名で知られる"火の都"ルストに向かっている。少し遠いが、馬の足を使えば四日の道程みちのり。馬の貸貨が余分に掛かるが、それも仕方の無い事だろう。
 何故、ルストに向かっているかって?それはな――


 


「まァ……言いたい事に想像はかたくない」
 すきや鎌、くわなどを手に俺を取り囲む村の男達。力仕事を主体とした村だけあって、皆ガタイが良い。ただ喧嘩に関しちゃド素人丸出しで、構えも屁っり腰で使い物になりそうも無い。
 張り詰めた緊張感に気を失ってしまったリルを人の右腕に抱き、俺は村長らしき老人――年の割にガタイが良い――に言った。
「出て行けと。そう言いたいわけだな?」
 老人は頷いた。
 そう。俺は、村を救った英雄なんかじゃない。災厄を招いた元凶。
 俺が魔物を引き連れて来たわけじゃない事くらい、ちょっと頭を回らせれば解かりそうなもの。しかし、彼らが今欲しているのは「俺がいる時に魔物が現れた」と言う事実と「原因を取り除いた」と「思う・・事」による安心感。その「原因」に俺を選んだのは、さっき言った通りの事と、俺が部外者であり、胡散臭い風体をしているから。何よりこの左腕を見たから。
 別にそれを理不尽だとか、馬鹿げているだとか思って怒り狂ったわけではない。そう思わなかったと言えば嘘になるが、こう言う場面には慣れている。どうしても思考がドライになる。
――人は、何かを他人に押し付けなければ生きる事のあたわぬ、弱き生き物だから。
 長い旅の中でイヤと言う思い知らされ、慣れてしまっていた。だから俺は特に反論をしようとは思わなかった。
「それじゃ、このガキんちょの事、頼むわ」
「駄目じゃ」
 ……は?
 リルを差し出そうとした俺は、我が耳を疑った。
「リルはお主を連れて来た元凶じゃ。それに、リンカの妹じゃ。もしかしたら、リンカのように魔物に変化へんげするやも知れぬ。そのような危険な子をこの村に置いておく事など出来んよ」
 村長の言葉に同意したのだろう。取り巻きの村人達が頻りに首を縦に振った。
 この……馬鹿ども……!!自分達の言っている御大層な理論が、根本から破綻しているのが解からないのか?!
 俺が元凶なら、リルがリンカの妹だろうと関係無いだろう?!リンカの血縁が原因なら、俺の存在は関係無いだろう?!何より、真の元凶は他にあるんだよ!!!
 俺の隻眼の気迫に押され、村人達はジリ……と一歩の間合いを広げた。
 理論の破綻と真の元凶を教えてやろうかとも思ったが、すぐにやめた。安心感を得たければ勝手に得れば良い。こんな馬鹿どもの集団にリルを放り出す事によって生じる彼女の将来の方が、俺には心配だったから。
 俺はリルの親戚筋の心当たりが無いかを聞き出して、こんな村から連れ出す事にした。
「"火の都"ルストで鍛冶屋を営むガイガスと言う叔父がいる。何度かリル達の家にも訪れている」
 左腕で胸倉を掴み上げると、村長は苦しそうにそれだけの回答をした。
 最後に左腕に巻き付ける布と手袋を強奪すると、俺はリルを連れて村を出た。


 


 パチパチと爆ぜる音は止まず、俺が枯れ枝を放り入れるその都度、弱まった炎は一瞬の勢いを増す。その繰り返しだった。
 一体、何と言ってやれば良いのだろう?リルが目を醒ました時に掛けてやる言葉を、果たして俺は持っているのか?
 たった一日の家出の隙に三人の家族を失ったリルに、慰めの言葉があるのか?リルの目の前で、姉だった者を焼き尽くした俺に?
 夢から覚めたら故郷を追われている自分がいると言う残酷な現実に直面するリルに、勇気付ける言葉があるか?全くの部外者の俺に?
 僧侶や牧師のように、傷付いた人の心を癒す言葉の魔法を使えない自分が、恨めしかった。ただ戦う事でしか人を助ける事が出来ない自分が、情けなかった。
 クソッ!!
 陰へと滅する鬱々しさで心が惑い、苛立ちで俺は手にした枯れ枝を乱暴にし折った。
「……ん……」
 焚き火の爆ぜ音、虫の鳴き声、風のざわめき。それらの音にさえ負けてしまいそうな、可愛い声。声と言うよりも呻きかもしれない。夢の世界からの生還を告げる時の、あの特有の呻き声だ。
 もぞもぞと毛布を剥ぎ取ると、リルが上体を起こした。
「……おはよう……お兄ちゃん……」
 開口の一番目は、どこかずれたそんな言葉だった。
 俺も「おはよう」と返した。言葉に抑揚が無い事は重々にして承知だ。
「よく……眠っていたな?」
「うん。でも、ちょっと寝過ぎちゃったかな?」
 そう言うと、照れたように舌をペロリと出して――
「寝過ぎて、怖い――ううん、悲しい夢見ちゃった」
 枯れ枝を火にくべる俺の動きが、ピタリと止まる。
「あのね、お姉ちゃんがパパとママを食べちゃうの。もう、びっくり。私ったら、夢だって言うのに思いっ切り叫んじゃってさ」
「俺は、お前をルストに連れて行く。お前の親戚がいるそうだからな」
「お姉ちゃん、こ〜んな大口開けちゃってさ。笑っちゃうよね。お姉ちゃんって上品だから、食事中に大口開けないってのに」
「鍛冶屋を営んでいるそうじゃないか?」
「そのお姉ちゃんを、お兄ちゃんが殺しちゃうの。そんな事あるわけないのにね?だって、お兄ちゃんはお姉ちゃんを助けてくれて、お姉ちゃんを口説くって言ってたのにさ」
「何度か村に来た事があるそうだな?可愛がってもらえると良いよな」
「何だって、あんな夢見ちゃったんだろうね?ところで、ここ何処?パパは?ママは?お姉ちゃんは見付か」
「リル!!」
 枝が弾ける音が、一度だけバチンと言う音に変わった。俺の叫び声に呼応したのだろうか?
「良いか、ガキんちょ、よく聞けよ。一度しか……言わねェ」
 言いたくない。
 揺ら揺らと踊る炎を、青色の隻眼に映した。
 沈黙が降りる。"音が無い"のでは無く、"言葉が無い"。静寂とは違い、弱々しい音だけを拾い、聞く者の心に不安と寂寥せきりょうを募らせる、最悪の時間。それが沈黙だ。
 一体、その沈黙を、俺はどれ程続けたのだろうか?沈黙を続ける程、口内はジメジメと湿り気を帯び、喉の奥にはけるような乾きを覚える。
 その口をようようにして開けて、俺は――言った。
「夢じゃねェ。現実だ」
 たった二つの文章を繋げるだけに、これ程の時間を費やしたのは幾度目なのだろうか?少なくても記憶に残る限りにおいては、これが初めての経験だ。
「そんな……面白くないよ、それ。私の見た夢と同じくらいさ……」
 言った声が震えている。本能が、現実から目を反らす事を強制し――理性が、現実に目を向ける事を強要する。
 またしても沈黙が下りた。今度は、僅かな時の間だけだったが。
「だってさ。私が昨日の夜寝る時に、パパもママも『おやすみなさい』って、っぺたにチュってキスしてくれたんだよ?」
 俺に、口を挟む事など出来ようはずもなかった。炎のせわしなさを見詰めていてさえ、リルの体が言い知れぬ恐怖に震えているのが解かった。
「そうよ、お姉ちゃんだって……三日……前……ま……では……私と……一……緒に……お花を……摘……んだり……ケンカ……だってさ……」
 途切れ途切れの空白の中に、リルは……一体何を込めて呟いているのだろう?
「……!!もしかして……お兄ちゃんが……!」
 予想……していた答えに辿り着いたようだった。
 慣れている。覚悟だって、とうに出来ている。
 俺は、炎からリルへと視線を転じた。
 リルも、俺の方を見上げていた。その振りあおぐ瞳に映る、揺ら揺る炎は、きっと彼女の心にわだかまる感情なのだろう。
――人は、何かを他人に押し付けなければ生きる事の能わぬ、弱き生き物だから。
 その「人」が特に弱い子供だったら尚更だ。
 俺は、甘んじてその「何か」を受けよう。
「そうだ。全て、俺の責任だ」
 「何か」を俺に押し付け易い立場にリルを立たせる為に、俺はそうやって告げた。
 殴られたって構やしない。そうされるだけのごうは為した。俺を殴る事でリルの哀しみを一瞬だけでも忘れさせてやれるなら、リルの気が晴れるなら、安い物だ。
 見られていてや、憂さも晴らしにくかろう。俺は黙って、瞳の中に炎を入れた。
 殴れ。蹴れ。罵れ。「姉の仇」と憎め。哀しみは、激しい感情で忘れる事が出来るから。
 トン、と。何かが当たった。布切れに包まれた左の二の腕に。殴られた、と言う感覚では無く、何かを押し付けたような恒常的な負荷。
 ツイと見下ろすと、押し付けられたのは拳でも蹴り足でも無く、涙で頬を濡らすリルの額だった。
「ゴメンね……お兄ちゃん……」
――不覚だった。あまりにも唐突で思い掛けなく、その言葉の意味を全くと言って良い程に理解出来なかった。
 殴打され、罵倒される覚悟はあった。だが、哀しみで身をゆだねられ、謝罪される心の準備など、一つの欠片かけらさえも出来ていなかった。
「何……謝ってんだよ。俺ァ、お前の姉貴を焼き捨てたんだぜ。憎まれこそすれ、謝られる筋合いなんざ無ェぜ」
 押し付けられた額が、グリグリと動いた。それが否定を表わす動きだとは、咄嗟には気付けない。
「ううん。お兄ちゃんは、私を助けてくれたんだモン。お姉ちゃんを焼いちゃったのも、仕方が」
「無いわけがあるか!!!」
 俺の叫びは、夜の帳に木霊を残し、余韻を絞って消え失せた。
「お前はそれで、本当に良いのか?納得出来るのか?目の前で姉貴を焼き殺されて、そいつを――この俺を本当に許せるのか?!」
「でも、それは私を助けようとしたからでしょう?そりゃ、憎く無い訳じゃないけどさ、私の為にやった事なんだモン。私が我慢してあげなくっちゃ、お兄ちゃんが、可哀想だよ」
 この……馬鹿が……。震える声を必死になって抑え付ける健気な姿は、あの大人気無かった連中と同郷の出自を持つ娘とは信じられなかった。
 リルの柔らかなブロンドの中に右手を突っ込むと、ワシャワシャと掻き乱してやった。あまりにも可愛げが無く、少し腹立たしかったから、少し乱暴に。リルは突然の事に、「ヒャッ?!」と、可愛らしい悲鳴を上げた。
「ホレ見ろ、ガキんちょ。年相応にガキみたいな声だって出せるじゃねェか」
 炎を睨み付けながら、吐き棄てるようにして言った。
「憎けりゃ憎いで、俺を殴れよ。"姉を殺した"と言う、それだけで良いんだ。そこに"誰彼だれかの為に"の行動なのか考慮に入れるのァ、夜伽よとぎの相手を務められるだけの大人になってからで上等だ。哀しみの八つ当たりも出来ねェ可愛げの無いガキは、ガキんちょなんかじゃねェよ」
 リルは俺の悪態に、ただ「ゴメンね」の言葉だけを飽きる事も無く繰り返す。
 俺には、してやる事も、してやりたい事も無かった。せめて涙が枯れるまで、黙って左腕を涙で濡らしてやる事だけ。何もしてやらない事だけにしか、俺には出来なかった。
「やァ、探しましたよ」
 俺とリルの気不味い空気を割って場違いに底抜けた声がした。若い男の声だ。
 慌てて炎から目線を外すと、炎を挟んだ正面に、男が一人立っていた。瞳を確認出来ない程に瞼を細く引き絞った、捉え所の無い笑みが仮面のように張り付いている。瞳も笑みも、掴み所の無い奇妙な男。
 気付かなかった。気配も足音も全く無く、男はそこに立っていた。
「アナタですね?漸く見付けた花嫁を僕から攫った、汚らわしい簒奪者は?」
 成る程、だから黒のタキシード姿か?長身をピシッと隙間無く包むその姿は、確かに婚儀に向かう花婿姿だ。笑いの仮面に金銀メッシュのオールバックと言うイカれた外観だが、こう言うのを好む女性も決して少なくは無い。
 だが、どちらにしても俺には無関係だ。女性は好きだが、他人の女性を寝取ろうなどと思った事は無い。こう言った類のトラブルは、俺の望む所ではないからだ。
「残念ながら人違いだろう?俺は最近、女性の相手をした記憶は無い」
 ぶっきらぼうな物言いだったが、決して目の前の男から気を反らしはしなかった。この細目の男、殺気も無ければ邪気も無かったが、何故か油断の許せぬ凶々まがまがしさを放っていた。リルも子供特有の敏感な感性でそれを嗅ぎ取ったのだろう。俺の腰周りに腕を回し、震える体を押し付けている。これが美人な姉ちゃんなら、不満が無いどころか大満足なのだが……。
「おかしいですねェ?」
 俺の思惑など露知らず、男はマイペースに困惑しながら、首を軽く傾げて見せた。ピエロじみたその物腰の全てが、妙に癇に障る。
「確かにアナタのはずなんですよ。ねェ、義父殿?」
 「義父」とやらが誰の事を言っているのか。問うまでも無い。男がツイと右を向けば、そこに現れたから。
 光――だろうか?ならば、何故闇にその身を紛れさせる?炎のように揺らめきながら、暗く青い光は、夜闇の帳に身を任せていた。
 その奇天烈な光の中に、人の顔が現れた。光の揺らめきが見せる錯覚などではない。苦悶と恐怖を張り付かせた男の頭が、光の中に見間違いなどでは無く存在していた。
 衣服が下に引っ張られたのは、リルがその小さな手で俺の衣服を引っ張ったから。戦慄わななくその口から一粒の悲鳴も零れないのは、気丈に耐え忍ぶのでは無く、ただ悲鳴を上げる事さえも忘れてしまうような常軌を逸した恐怖に囚われてしまったから。
 肩を抱き、俺はリルの小さな体を引き寄せた。
「義父殿。あなたの娘を、私の花嫁を奪った下郎は、この人間で間違いありませんよね?」
 張り付いた涼しげな笑顔の仮面で男が尋ねると、人頭を有する光が喘ぎ応える。「あ゛あ゛ぁ……」とか「えう゛……」とか言う、低俗な獣が発する唸り声のような人外の言葉であったが。
 フと気付いた事があった。惨めに哀れに仰ぐ人頭に、見覚えがあるような気がしたから。
 思い出せない。それ程昔の事なのか?それとも、単純に印象が薄かったのか?
 俺の疑問は殆どの間も置かずに解消された。それは、意外な一言で。
「パパ……」
 リルの声は、小さく、弱く、掠れ、しぼみ、そして虚ろに、空しく。心を何処かに置き去りにした、人形のような呟きだった。
 思い出した。人頭は、リンカが手提げていた男の頭だ。
「おや、君。義父殿の娘さんかい?と言う事は、僕の花嫁の妹さんだね?」
 リルの呟きを耳聡く聞き盗んだ男が、ニンマリと嗤った。
 ヤツはイケしゃーしゃーと「君の顔を、もっと僕に見せておくれ」と言うと、細めた瞼を押し上げた。
「成る程。まだ幼いけど、流石は僕を射止めた花嫁の妹さんだ。美しさは十年後が楽しみで、聡明そうな瞳も魅力的だ。よし、君は未来の僕の花嫁だ」
 嬉しそうだった。子供が新しい遊び場を発見して喜ぶように、無邪気に笑った。
 ドス黒い笑みにある二つの瞳は、己の存在を誇示するかのように光っていた。
 その色は、闇を切り裂く黄色の光を持っていた。



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